出版放浪記④ 持ちこみ
2008年春のこと。
代々木駅に着くと、僕はネットで印刷した地図にしたがって歩いた。
歩きながら鞄をひらき、カセットレコーダーと『オレンジ病棟』の原稿があることを確認。
大手出版社の自費出版部門に持ちこみをしようと思ったのには理由がある。
自分の書きかたが果たしてこれで合っているのか、意見を聞いてみたかった。
小説スクールに通うという手もあったが、最前線に身をおいている編集者さんの意見を聞くほうが有意義な気がした。
その出版社では商業出版もしていたが、一切持ちこみを受けつけていなかった。
編集者サイドに持ちこみを受け容れるだけの余力がないのだという。
漫画はすぐに読めてしまうから持ちこみを受容しているが、小説は読むのに何時間もかかるから、持ちこみ不可なわけだ。
だが、せっかく原稿を目にする機会をみすみす棒に振るのはもったいない。
ならば適切な料金をとり、原稿を見ようということで設立されたのが、その出版社の自費出版部門だった。
大通りを外れ、すこし入ると、閑静な住宅街のどまん中に、薄ベージュの建物があらわれた。出版社である。
図書館のような佇まい。
落ち葉が似合いそうな建物だった。
僕は大きく深呼吸をすると、ゆるやかな階段をえっちらおっちら上がっていった。
入り口のガラスには、オレンジ色の文字で『直木賞受賞』の貼り紙が。
村上龍さんが、よしもとばななさんがくぐった玄関。
――らもさんも来たのかなぁ。
この出版社が出した商業出版の本には、中島らもさんが解説を書かれていた作品があった。
中に入ると、僕は呑気にあたりを携帯のカメラで撮った。
六畳ほどの大理石の間に、受付用のインターフォンと黒いソファーがふたつ。
内線の押しボタンに触れると、受話器に耳をあてた。
「はい編集部です」
「二時に面会のアポをとっております朝丘と申しますが、担当編集者さんはいらっしゃいますか?」
「ただいまお伺いしますので、受話器を切ってお待ちください」
どんな人だろう。心臓が高鳴った。
壁には、映画化された書籍のポスターが。なんだか、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったような気がした。
厳重な扉の向こうから、担当編集者の女性があらわれた。
「どうぞ」
女性の後に続いて、中に通された。
「おっ、おおおおぉおっ!」
思わず唸った。
すぐそばを本物の編集者が行き来し、打ち合わせをしている。
奥には編集部のデスクがたくさん並んでいるのが見える。漫画『美味しんぼ』の山岡さんがいる東西新聞社のオフィスのようだ。
夢の裏舞台。
テレビスタジオの中を生で見学するような興奮だった。
テーブルをはさみ、担当編集者さんと対峙した。言ったことや聞いたことが垂れ流しで一、二割くらいしか覚えていられなかったので、カセットレコーダーをまわしてもよいか確認をとる。
担当編集者さんは快く了承してくださった。
(以下録音テープより)
「……大変でしたね。交通事故に遭われて」
「ええ、まあ」
「それで……お持ちいただいた原稿についてなのですが、やはりご自身の闘病記なのですか」
「いえ。実体験をベースにしているところはありますが、小説なのでフィクションも混じっています。闘病記にしちゃうと、あまりにも暗い話なので」
「はい」
「ですから、入院のほかに、もう一つの柱を入れることにしました」
「柱ですか。それはどんな?」
「育毛です」
「え!?」
一瞬の沈黙。
「ストーリーはこうです。頭の薄くなった男が旅先で事故に遭い、入院した病院の、行く先々の病棟で、様ざまなハゲどもと出会う。そして彼はありとあらゆる育毛法を伝授され、試していくわけです」
「ええええぇえ!? ホントですかぁ!?」
編集者さんが素っ頓狂な声をあげた。原稿を見ながら、
「あ、ホントだ。〈ヘアハゲーン〉って書いてあるぅ。何ですか、〈ヘアハゲーン〉って」
「主人公が使っている育毛剤です」
「……ヘアハゲーン……ふっふっふっ」
ウケている。
僕は心の中で、〝やったわ〟と思った。
*
原稿の持ちこみをしてから数週間後、担当編集者さんから感想を伺った。
――作品をわかろうとしてくださっている。
そうした想いがひしひしと伝わってきた。
同時に指摘したい部分を数例あげられ、自分がこれからやるべきこと、手直しすべきところが見えてきた。
参考までに自費出版の小説を出版した場合、平均でどれくらい売れるのか尋ねてみた。
返事をうかがって、現実の厳しさを思い知らされた。
商業出版の作家なら、ハナもひっかけないような数だったのだ。
万が一にも、山田悠介氏の『リアル鬼ごっこ』のように作品がヒットして採算がとれることはないのか、といった話も一応はしてみた。
担当編集者さんは、落ちついた口調でこう答えた。
「まず出資回収という考えかたはなさらないほうがいいですね。余程のことがないかぎり、回収は不可能だと思います。それこそ山田悠介さん……あの方は奇跡ですよね。ですので、そういう考えは持たれないほうが健全だと思います」
ある本で知ったことだが、出版業界には『千三つ』という言葉がある。千の作品のうち、ヒットするのは三つという意味だ。
山田悠介氏の売れかたは、万に一つ。だからこそ、出版当時あれほど世間の耳目を集めたのだろう。
納得した。
*
それから数週間後、僕は自費出版契約することに決めた。
交通事故に遭ってから〈脳のリハビリ〉と称し、家に閉じこもって小説を書いている僕の背中を、いまは亡き父が押したのだ。
「いくら作品を書いたって、誰にも読まれないんじゃ、面白くないだろう」
費用は高額だったが、映画製作だってお金がかかる。それに、障がい者となり、結婚もできなくなった僕には、交通事故の慰謝料があった。
その金で小説スクールに通うことも考えたが、そういったところよりも編集者さんに言われていることのほうがアドバイスとして合っているような気がしたのだ。
それをヒントにして、次の作品はどうにかすればいい。売れないのは承知の上で、一回本を出してみるというテもあると思った。
あの中島らもさんや東野圭吾さんも自費出版からのスタートなのだ。
ただ、出版契約するかどうかを決めるのは自分なのだから、いったん契約したら、後悔することだけはやめようと思った。
世間の本離れが進み、読み手よりも書き手の人口のほうが多くなったような現在、僕のように若いころから小説を書いてきた者にとって状況は厳しいが、売れている人は売れているので、それは言い訳にならない。
この先いくら努力したところで報われるという保障もない。
ただ、本を出したことでいろいろと貴重な経験をさせていただいたわけだし、本を媒体として様ざまな人たちと話ができるようになった今日(こんにち)があるのだから、当時お世話になった自費出版社さんにはとても感謝している。
ちなみに本を上梓したあと、ある商業出版の関係者で文学賞の審査員もされている方に『オレンジ病棟』を読んでいただいたところ、
「うちに最初に持ってくれば、商業出版できましたよ」
と言われた。
「朝丘さんの実力で、もしも音楽か芝居をやっていたら、商業出版できていた」
とも。
世の中、そんなもんかもね。
©2024 Daisuke Asaoka
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